【映画】白ゆき姫殺人事件見てきた

綾野剛くん、井上真央嬢たちの演じる『白ゆき姫殺人事件』を見てまいりました。

きっかけは小説の中吊り広告です。映画化が決まってからの文庫化だったので、
いわゆる大帯を使った、井上真央嬢が表紙のように見える文庫発売でした。

雑誌での連載と、ツイッターでのつぶやきやブログ、週刊誌記事を模した記事などのウェブ配信が同時進行するというメディアミックス企画で、
そのやりかたは面白そうだと思って小説を購入しました。

小説それ自体は、ミステリーとしてはそんなに読み応えというか、事件としての厚みがそんなになく、
その描き方をプッシュした販売だったんだろうと思います。

人々が流れる情報に翻弄? され、思い込みで虚構がより具体的に形作られていく、というのは、
感覚的にその恐ろしさを理解できるものだと思います。

ただ、逆に言えば、その恐ろしさは感覚的にすぐに理解できてしまうので、
そこに特に新鮮味は感じませんでした。

 小説では、主人公・赤星の取材の順序を追う形でプロットが展開していくので、
これがツイッター(小説ではマンマロー)やブログ記事などとともにより同時進行的に展開していったら面白いかなと思ったのですが、
映画はかなり忠実に小説を映像化していたので、
プロットの展開もそのままになっています。

そうすると、最後に提出される城野美姫の語りが小説のゴールのように、全ての他の人物たちが誤解して語った物語の背景にある真実、のように見えてしまいます。

しかし、そこで語られる三木典子像もまた城野を通した三木像であって、そういう「人間の記憶を通した語り」と、「事柄としての事実」の間は異なるものである、それらが存在するレベルもまた違う、ということが、
映像化の際にはより際立つのでは、と期待したのですが、そうはなっていなかったと感じました。

ここを脱することができないと、この小説の新味、すなわちメディアミックス的な多視点からの語りと、そこから構築されるコントロールを超えた虚構の物語の恐ろしさ、は、コントロールを超えたものにならず、 結果として凡庸なコンテンツから脱することもできないのでは。

城野が「今まで会った人の中で一番美しい人」と語る夕子役に貫地谷しほりを持ってきたのは、間違いではないと思うけど、ちょっと衣装・ヘアメイクに失敗していると思うな。
自身が外見にまったく無頓着でも、美しく見える人、というのはいて、 貫地谷しほりにそのポテンシャルはあったと思うけど、あんまり出てなかったと思う。残念。
逆に井上真央は、何の印象ももたらさない地味な人、という役を一生懸命演じていたと思うけど、いやー、やっぱりかわいいよね。

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