【劇評】4時48分サイコシス(構成・演出:笛田宇一郎)見てきた

4時48分サイコシス見てきた。

サラ・ケインに対する思い入れがそんなに深いわけではないけれど、
クリスマスは川口智子さんのクレンズド・プロジェクトを観に行く、という過ごし方を4年も続けてきたので、
そのケインの戯曲を川口さん以外の人が構成・演出するというので興味がわきました。

笛田さんのことは客席からなんども見たことがあって、
最近ではベルナール『森の直前の夜』を2時間近く立ちっぱなしでやってのけるのを見ていたので、
そのことも興味を引き立てる要因だったと思います。

 で、サイコシスです。

17日昼の回を観たんですが、
中野テレプシコールはすぐ脇に線路があるので、開演直後に電車が通過する音がゴトンゴトンと静かに響いて、
観た後にこのことを忘れないでいられるような時間だといいな、とぼんやり思いました。

そういう意味では、わたしのその期待が裏切られない、
観劇後にいろいろなことを思い出して考えられる舞台だったと思っています。

そう、悪くはなかった、来なければよかったなんて思っていないし、
いい時間を共有できたとは思っています。

なんですけど、高くは評価できない、という気持ちでいるんですよね。

わたしはサイコシスのテキストを読んだことはないのですが、
聞くところによると半分近くカットされていたようです。

そこにある狂気が全面に押し出されていて、
それは、黒田真史さんの発語からも、ダンス、音楽の演出からもわかります。

でも、その狂気は、もっと身近に、普通の日常の中に、あるのではないのか?
マットレスもない、骨組みだけになったベッドに絡みつく白い服の女(井上みちる?)の様子は、その振る舞い自体はひくひくと狂った様相で、静かに苦しんでいるようにみえる黒い服の男(武内靖彦)も、もちろん普通の振る舞いではない、のはよくわかります。

黒田さんの話すケインの言葉は、クレンズドとかとくらべても、もっと素直に? 自身の苦しみに向きあおうとする素直な言葉だったのではないのかと、
そうだとすれば、そんなに全面に狂気を押し出さなくても、その深い苦しみと悲しみはわかるんじゃないのか、
そういう感覚こそ、劇場における俳優と観客の共在によって達成されるべきものだったのではないか……
なんてことを、ちょっと考えてしまいました。

とりあえず、黒田さんの髪がきれいでした。 

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