アンスティチュ・フランセ/哲学の夕べに行ってきたよ

アンスティチュ・フランセで催された「哲学の夕べ」に出かけてきました。
このイベントというか、催しというか、祭り? は、今年で2回目。
まだまだ祭りとして未完成というか、荒削りな感じがあった昨年から、
2回目の今年はそのフランス的いい加減さのなせる心地よさはそのままに、日本人でも参加しやすい感じになっていました。

顕著な点として、祭りの目玉として? 扱われているアートが、
去年は壊れたオルガンのインスタレーションだったんですが、
今年は2点のパフォーマンスだった、という点だろうと思います。
それぞれ30分程度の短いパフォーマンスなんですが、
この時間にここに人が集まる、という指針のようなものがあったほうが、
ふらりと訪れた人にも参加しやすい祭りにしていたと思います。

設定されたパフォーマンスは、
off-Nibroll「街にひそむ」と、N///K「Artificial」です。

「街にひそむ」の方は、当人たちは朗読劇と言っていましたが、
戯曲を中心とした身体と映像の融合的なパフォーマンスであり、
「Artificial」の方は映像とインプロビゼーショナルなギター演奏を含んだダンス。
いろいろな意味で対照的なパフォーマンスでした。

どちらも2回ずつ行われ、
「街に」の方はどちらも同じ中庭で、「Artificial」の方は1回めはテラス、2回めはホールで行われました。
構造や演出、振り付けなどはどちらも2回ともほとんど同じことをしようとしていたと思います。

「街に」の方は、わたしが会場についたのが19時を少し過ぎてしまったのもあって途中からの鑑賞となり、
1回めはあまり集中できませんでした。
そのため、「街に」に対する第一印象は、ちょっと荒削りというか、詰めの甘いところがあるのでは?
と思ったのですが、2回めに心の準備と場所取りをちゃんとして向き合ったときは、結構楽しめました。
そう、このパフォーマンスは、
「この場所で聞くことにしよう」
という、観客の側の覚悟のようなものが必要なパフォーマンスだったのです。

冒頭「これは、朗読劇です」という宣言とともに始まるこのパフォーマンスは、もちろんただの朗読劇ではありません。
そこには映像と、俳優の身体が意図的に介在するのですが、
その中心に朗読の対象である「戯曲」があるぞ、ということが、まず宣言されます。
街の風景を見る、ということ、そのことについて言葉を用いて表象しあうこと、言葉には真偽という論点があること、しかしすべての言葉は常に誰か別の人の言葉の模倣であることからのがれられないこと、
を中心としたこの戯曲は、3人の俳優によって「朗読」されます。
もちろん、単なる朗読ではなく、その途中途中におそらく朗読中の声をコントロールするための、視覚的には無為にも見える上下運動や段差の昇り降り、また会場を走り回ったり、 地面に寝転がったり、といった動作が挿入されます。
また、内容が展開するときには振り付けられた動作が挿入されたり、
映像が大きく展開するときはまったく動かなかったり、
すなわち、朗読劇とはいえ、俳優の身体と映像が大きな影響力を持つパフォーマンスとなっていました。

逆に言えば、ここでは映像を見て下さい、ここでは身体を見て下さい、ここでは言葉を聞いて下さい、
といった区分がわりあいはっきりと分かれていたというか、
それぞれに一定程度以上の存在意義をもたせようとした結果、それぞれが強く独立してしまっていた感じがします。
そして、その割には、それぞれの記号的意味付けはあまりはっきりしないというか、
あくまでも戯曲を中心とした朗読劇、というスタンスを貫こうとしたために
戯曲の言葉以外に意味づけられるものが捨象され、
結果的に身体の振る舞いと映像が唐突に突き出される感じになっていたのではないかと思います。
これは個人的な好みの問題も多分に含まれると思いますが、アンスティチュ・フランセの中庭、という場もあんまり意識的に生かされてはいなかったのではないかな……と思ってしまいました。

一方、「Artificial」の方はというと、
ジャンル的にはモダンダンスだったと言っても異論はないと思います。
ただし、そこには映像とインプロビゼーショナルなギター音、それを増幅して作られたサウンドエフェクトが積極的に用いられており、
それらと身体との融合も強く意識されたものでした。
この「Artificial」の方は、自然的なものと人工的なものの境目を探り出そうとするパフォーマンスになっていて、
映像も、音も、振付もそれを明確に意識したものになっていました。
つまり、全てを記号として捉えることもできそうな、
極めて融合的でありながらもひとつひとつが明確な意味付けをもったものとして提出されている、と感じました。
場所も、1度めは外の風の音や空の高さを感じられるテラスで、
2度めは閉鎖されたホールで、という、後から考えると、あ、そういうことだったのかな……と安直に思ってしまうような明確に対照的な場が選出されていました。

「街に」の方が、明確な意味付けを持った戯曲を中心としたパフォーマンスでありながら提出される映像や身体が記号性を持ちにくいものであったのに対し、
「Artificial」は自然的なものと人工的なもの、その境目、という抽象的なテーマを掲げつつも提出されるもののほとんどが記号的に成立している、という、
対照的な二つのパフォーマンスでした。
どちらも身体と映像の融合を図ろうとしたものだった、というのも、象徴的です。

パフォーマンスの真っ最中だというのに、
おしゃべりしたり、写真撮ったり、途中で入ってきたり、
つまんなかったら出て行ったりする、
フランス人らしいゆるさの漂う、いい夕べでした。
またパリに行きたーい。

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