日本女子大学児童学科のミュージカルづくり

毎年恒例の日本女子大児童学科3年生のミュージカル作り。
年に一回呼んでもらっていて、楽しく(時にかなり苦しく……)参戦しています。
今日は本番の発表会で、今年は久しぶりに発表会を拝見することができました。

わたしにとってはとっても重要な、大切な場所であり時間だけど、ちょっと、どんな風に考えていいのか未整理だったのもあって、少し書いてみます。

Facebookからの転載。

 

この活動は児童学科3年の音楽実技2の授業の一環です。

児童学科は幼稚園、小学校の教免を出している学科なので(変わるらしいけど)、音楽実技2は、ざっくり言えば、ピアノを弾いて、歌を歌う技術を身につける時間です。
ここでは、5人前後のグループに分かれて、一年を通してミュージカルを作ります。

「音楽実技2」におけるミュージカル

そこで作られるミュージカルは、準備、片付けの時間も入れて20分程度の短いもので、お話作りや作曲も自分たちで行います。
会場もいつもの教室だし、衣装やら装置やらに使える予算も本当にお小遣い程度の、ごく小規模のものです。

たとえば、今日の発表のトップバッターを務めた「JIZOU」という作品のあらすじはこのようなものです。

ある雪の夜、妻に先立たれたおじいさんが、生活費を稼ぐために菅笠を売って歩きますがなかなか売れず、
路端にならんでいた5体の地蔵に、売り物の笠と自身が使っていた手ぬぐいをかぶせてやります。
(ここまでは童話の「かさこじぞう」とほとんど同じ)
実はその地蔵たちは数百年前に人間だったことがあり、生前罰当たりな行為をしたために今は地蔵となっていて、人間に戻ることを熱望していました。
この地蔵たちは、あくる朝、人間に戻っていることに気づきます。
人間に戻ることができたのはこの笠のおかげだろう、と予想した元地蔵たちは、おじいさんへの感謝を述べ、それぞれ人間としての自由な生活へと旅立っていきます。

このような、決して長くなく、複雑でもない物語が、学生の作った音楽に合わせて展開します。
挿入されていた音楽は、妻に先立たれたおじいさんの哀愁や、生前の地蔵の罰当たりな行為についての説明、人間に戻ることができたことへの喜び、おじいさんへの感謝、そして新たな人生への希望を表現する機能を果たしており、かつ繰り返しや展開、明確な始めと終わりが与えられていて音楽部分としての独立感もありました。
音楽の長さや厚みの比重も意図的に調整されていて、ミュージカルとしての構成はきわめて明確なものでした。

この「JIZOU」という作品を「おじぞうさん」や「地蔵」ではなく「JIZOU」たらしめているのは、この地蔵たちが生前に犯したとされる〈罰当たりな行為〉にあります。

かつて一国のお姫様だった地蔵は城でわがままし放題を繰り返したため、
またかつて海賊だった地蔵は海の上でやりたい放題を繰り返したためめ、
大工だった地蔵はたった一つの建物の建築に失敗したために、
罰があたって地蔵となってしまうのですが、
かつてパティシエだった地蔵の〈罰当たりな行為〉は砂糖と塩を間違えたことであり、
コックだった地蔵のそれは料理中のつまみ食いのしすぎ、というものです。
この〈罰当たりな行為〉のあまりの矮小さというおかしみが、地蔵を「JIZOU」とローマ字表記する戯れに象徴されています。

このことは、これが曝露される曲が、この前に挿入されるおじいさんの哀愁に比してあまりにも大きな転換をもたらすものとして機能していて、
内容の割に長く、大げさに演奏される、すなわち、大きな規模のミュージカルで言うところのメインテーマとして演奏されている、ということからも伺えます。

……と、このように書けば、さも丁寧に考えられ、構成された短いミュージカルが作られたように見えますが、
(もちろん、これを作った学生さんたちはこれを本当に丁寧に、一生懸命作ったのであろう、ということに疑いの余地はありません)
この〈罰当たりな行為〉のあまりの矮小さ、というおかしみは、これを見る同級生たちにウケることを目指しているだけである、ということも無視することはできません。
砂糖と塩を間違える、料理中につまみ食いをする、という些細な行為が「罰」としては些細であることがおかしみになるには、その些細さが子どもにもわかるほどにシンプルなものであることが前提としてあり、それは児童学科の同級生を観客として想定しているから成立するものでした。

昨今の児童青少年演劇とのズレ

児童学科で行われるパフォーマンス要素をもった芸術について実践的学習、という点で言えば、
「ひつじ」で有名なコープスであるとか、わたしが感動したのはいつか座・高円寺で観たラ・バラッカの「水の色」などですが、
そのような子どものための優れたパフォーマンス作品は、まして東京にいれば比較的容易に見ることができるわけですから、
そういうものを紹介するなどするべきなのかもしれません。

そのような、大人が見てもちょっとすごいと思うような、
社会における子どもという存在について一歩踏み込んで考えさせられるようなパフォーマンスが、実際に生まれ、実践されているのですから、
子どもについて考えることを専門とする児童学科の授業として、そして、音楽の授業の一環としては音や音楽に焦点を当てて、子どものためのパフォーマンス作りを実践する、という方向に向かうべきなのかもしれません。

日本女子大の音楽の授業を担当している先生方は本当に素晴らしい方ばかりなので、
そのような方向に向かうことは、決して不可能ではないと思います。

けれども、今、作られているミュージカルは、「JIZOU」のようなものです。
児童学科の3年生全員が関わっているので、今年は13作品作られましたが、
そしてもちろん、ひとつひとつは異なる様々な工夫がされているのですが、
「JIZOU」のような作りを大きく逸脱するものは特にありませんでした。
おでこに顔が来るはちまきタイプのお面や、パワーポイントとスクリーンを用いた紙芝居的な場面転換、紙やすずらんテープで作った衣装など、典型的な「お遊戯会」的表現が目立ち、題材も基本的には既存の童話のパロディです。

わたしの立場からは、これらに対して、今、演劇の専門家が作る子どものためのパフォーマンスはこんなんじゃないんだぞ、ということを、より強く主張するべき、なのかもしれません。

児童学科の3年生によるパフォーマンスを、卒業生として見ること

ですが、わたしはどうしても、今日彼女たちが見せてくれたミュージカルを、否定しきることができないのです。

児童学科の3年生ともなれば、それまでにさんざん手遊びやわらべうた、絵本、童話、幼稚園・保育所における保育実践etc…を検討してきているわけで、かつこれはその児童学科における音楽実技2の授業の枠内で行われているので、
それまでに授業で扱った事柄や、児童学科の学生として知っていて当然のことは、その場で共有されている前提として強く影響するだろうということが予想できます。

この予想を踏まえて考えれば、
彼女たちは、その前提を使って、与えられた20分でできる最大限のエンターテイメントを作っているのではないか?
同じ児童学科の同級生、しかもそれまで数多くの授業を共にしてきた観客に対して、
ただ童話をそのままやるのではなく、習ったことをそのまま再現するのでもないような形で、
ときにはテレビで観たお笑い芸人のギャグをも混じえながら、自分たちがもっている共通の前提を最大限に活用して、
その20分、観客とどのような時間を共有するべきかを、無意識でしょうが、考え、表出した結果なのではないのか?
それは彼女たちが児童学科の学生としてそれまでに何を学んだかを再確認する作業なのではないか?
そうだとすれば、ここでのパフォーマンスは、児童学科で学んだことは、将来の就職のためとかいつか保育する子どものためとか言わずとも、自分たち自身が楽しめて、面白がれる要素を含んでいることを、身体を介して議論し、確認しようとするものなのではないか?
という言い方ができるのではないかと思います。

これらは、パフォーマンスという見る/見られる関係を作る行為がもっている、いわば根本的な、そしてもっとも重要な機能に属するものです。
ここで「最新の子どものための芸術的なパフォーマンスについて勉強しましょう」などという学習目標を立てそれに近づけさせることを目指してしまったら、
パフォーマーは同級生という観客をここまで意識することなく、自分たちがもっている前提や共有事項を確認することもなく、
ただ見せられ学習した既存のパフォーマンスについて、要素に分解したり、真似たりするだけで終わってしまうことでしょう。
それは無意味だとは思わないけれども、もしそうなら、自分たちが実践する必要は極めて低くなって、その準備の時間を少しでも多くのパフォーマンスを見ることに当てたほうがよほどいい、ということになるでしょう。

そして、わたしがこんな風に感じるのは、わたしがこの児童学科の卒業生だからだろうと思います。
児童学科で学んだからといって、全員が幼稚園・小学校教諭や保育士になるわけではないし、
児童学科での勉強・研究は、すべてが免許のためのものではありません。
しかし授業の都合で一日の3分の1(ほぼフルコマ)を児童学科で過ごし、なんらかの形で子どもについて考えて過ごす彼女たちは、
自分にとって子どもとは、子どもを取り巻く環境とは、そしてそんなことばかり考えて過ごす自分とは、について、否が応でも考えさせられ、その自分を否定しないためには、子どもについて考えることそれ自体を面白がることができるかどうかにかかっているのではないでしょうか。
つまり、ここでの、悪い言い方をすればきわめて内輪ウケ的なミュージカルは、3年生という、そろそろ実習も始まりだして、卒論のことも考え始める時期の彼女たちにとって、「わたしたちは、ここにいることを面白がれているよね?」という学科内の公論を形成する作業なのではないか、
学科内で、比較的自由にパフォーマンスを作るという機会において、そのような公論形成の作業をすることを、否定することが、どうしてできるでしょう。

彼女たちの「反乱」

このような視点に立つとき、今日為されたパフォーマンスは、そのどれ一つも、既存の物語をそのままやることはしなかった、ということを評価しなければなりません。
もちろん、授業の中で、既存の物語をそのままはやるな、お話から自分たちで作れ、という指導はされているのですが、
童話の「かさこじぞう」はおじいさんが地蔵に笠をかぶせる、という善行が利益になる物語であるのに対し、「JIZOU」は、おじいさんの優しさが地蔵を救う物語へと書き換えられています。
これ以外にも、「オオカミと七匹の仔ヤギ」と「3びきのこぶた」を題材とした「オオカミ養成スクール」は、仔ヤギを食べようとやってきたオオカミよりも仔ヤギのほうがずっと強く、この仔ヤギと母ヤギがオオカミを一人前のオオカミとして鍛え上げ、修了試験として完成したばかりのこぶたの家を破壊する、という物語に書き換えられていますし、
おそらく「シンデレラ」と「ピグマリオン」から着想を得ている「Reform・・・?」は、ヤンキーでガサツなあやんぬ姫がばあやとメイドに淑女としてのたしなみを教えこまれ、みごと王子と結婚するが、付け焼き刃のたしなみはすぐに化けの皮がはがれ、王子を尻に敷く鬼嫁となる、という物語です。
すなわち、彼女たちが共有している前提としての子どものための物語は、彼女たちはそのままでは面白がることはないのです。
彼女たちはここで、手を変え品を変え、既存の物語を書き換え、題材の雰囲気をぶち壊し、イメージを台無しにすることで、前提となっている「子どものためのもの」と呼ばれる様々なものの教条性や純粋性を揶揄する、という反乱を起こしていて、
その反乱の中では、それでも「子どものためのもの」には面白いところが残るかどうか、残るとすればそれは何なのかが試されるのでしょう。
そういう意味で言えば、今日の13作品は、それぞれひとつひとつ、自分たちが面白がれるものが何なのかを、丁寧に検証していたように思います。
ここで全てについて検証することはできませんが、たとえば「JIZOU」においては、題材「かさこじぞう」の、石でできているはずの路端の地蔵が意志をもって動く、という極めてシンプルな要素が、その背景に何があるのかが創作されることによって検証されていた、ということができると思います。そして、石の地蔵を動かすほどのエネルギーは地蔵自身の欲望によるものである、という解答は、日本女子大学児童学科のミュージカルにおけるものとして、反骨精神にあふれた「面白い」解答である、と、わたしは言いたくなるのです。

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