「あめちゃん ころりん」講評

「あめちゃん ころりん」は、「おむすび ころりん」のアレンジ、とでも言うべきか。

良い子・佐藤良子は、病気の祖父を非常に大切に思っている。都度都度見舞いに行き、身の回りの世話をし、必要があればおじいさんのために薬を買うという用達も担う。しかし、良子たち(祖父の病気治療のための経費の出処は定かではない。まさか良子のお小遣いではあるまい)は決して裕福ではなく、高価な薬を買ってあげることはできない。お使いに出る良子はそのことをわかっているので、悩んでいる。祖父の方も、自分のためにお使いに出てくれる良子にお駄賃をあげるようなことはできず、良子に渡すことができるのはおやつの飴玉くらいである。
薬を買いに行く道で、良子は「うごめく小さなもの」を見かけ、おどろく。おどろいた拍子に祖父にもらった飴玉を落としてしまう。気にはなるものの諦めて先に進もうとするが、再び「うごめく小さなもの」を見かけ、追いかける。
その「うごめく小さなもの」とは飴が大好きな小人であった。小人は人間から隠れて暮らしているが、良子のことを飴をくれた良い子として受け入れる。
後日、良子は学校で祖父の具合がよくなりつつあることを友人に報告する。 その理由は、飴をあげた小人がお礼に好きなものを出してあげる、というのでずっとほしかった祖父のための高価な薬を頼んだところ、薬を手に入れることができたためである。その話を聞いた悪い子・西園寺あげはは、自分も小人に好きなものを出してもらおうと、たくさんの飴玉を持って出かけ、良子が飴を落としてしまったという穴に大量の飴玉を流し込み、その穴に自分も飛び込む。
飴玉を流し込まれた小人の方はありがた迷惑である。彼等は飴が大好きだが、好きなものでもありすぎれば迷惑だ。 そのことに気づきもしないあげはは、小人たちに飴の見返りとして宝石を要求する。小人たちはあげはに未精製の宝石の原石を出して押し付け、ここに宝石がたくさん含まれているから、自分で掘れば、と言って追い帰す。

上記のように、基本的な設定は「おむすび ころりん」そのものであるが、学校に通うような学齢の少女に起きることとして描かれ、小人に渡すものも「飴玉」という子どもに扱いやすい素材である。また、あげはの欲しがるものも等身大である。あげはその要求の仕方が「ルビーでしょ、エメラルドでしょ、あと、ダイヤモンドも欲しい!」という単純なものであることから、おそらくあげはは本物の宝石を使ったアクセサリーを持ったことはないことが予想できる。(なんとなく、周囲に自慢できるような高価なものがほしい、というような少女らしい要求をそのまま表出した、いいセリフだった。)

このような物語全体を支える「少女らしさ」の一方で、良子のかかえる状況の端々に、病の祖父を介護する小学生というきわめて現代的なトピックが見え隠れする。祖父のために高価な薬を買ってあげることができない、という悩みを抱える小学生を誰が見たいだろう。にもかかわらず、良子はおやつの飴玉と引き換えに高価な薬を手に入れる。小人にとって飴玉は自分で出すことのできない好物である(そうは説明されないが、そうでなければ辻褄があわない)。小人の「あの子はほんとに良い子だった」というセリフの影に隠れてはいるが、ここで良子と小人の間結ばれているのは友情関係ではなく、等価交換というビジネスライクな関係である。その証拠に、小人とあげはの間にもこの等価交換の関係は成立している。小人に対し傍若無人に振る舞うあげはに渡されるのは、「宝石が含まれた大きな原石」であり、あげはにとって不要なものが付随してはいるもののあげはの要求は満たされているのである。そして、あげはが小人に対して行なったことも、必要以上に大量の飴玉の提供であった。

元々のお伽話「おむすび ころりん」や「舌切雀」が、善行や慎ましさに対する富の提供を描いていて、特に悪いおじいさんが良い見返りを受けることができないことによって、良いおじいさんの善行やつつましさが礼賛されているのに対し、この「あめちゃん ころりん」は良子がなぜ、どのようにいい子なのかは描かない。ただ、小人が「あの子は本当にいい子だった」と言うだけである。そして、あげはに対しても「この子はあの子ほどいい子じゃない」と言うだけで、あげはの要求を叶えてやることはする。

この「あめちゃん ころりん」を見て、良子の行いが善行だったと判断できるだろうか。また、あげはの行いが悪行だったと? あげはが見返りを求めて小人の元へ行ったとして、それは良子の話を聞いたからであり、その良子の話しぶりも「小人に飴をあげたら欲しいものなんでもあげるって言われた」という見返りを強調するものだった。確かに良子は病の祖父を甲斐甲斐しく介護する良い小学生であるし、あげはは高い位置のツインテールにリボンを結んだ自己顕示欲の塊のような小学生である。しかし、そのことは小人との関係に影響しない。「あめちゃん ころりん」における小人は、人々の生活の全てを観察しているような超越的な存在(たとえばシンデレラの魔女のような)として描かれているわけでは決してない。飴が落ちてきたことに喜び、仲良くなった子を贔屓するような、人間らしい小人である。すなわち、「あめちゃん ころりん」には、善悪を判断できる固定的な尺度となるものが何一つ設定されておらず、その尺度の不在に観客に気づかせないままエンドロールを流してしまうという、思わず、あなたたちブレヒトか、とつっこみたくなる不条理さがある。善行を礼賛するお伽話「おむすび ころりん」改題としての「あめちゃん ころりん」は、設定をほとんどそのままに、登場する小道具を差し替えるだけでこんなに違うんだということを考えさせられる良作だった。