「取りかえっこしましょ!」講評

ミシェル姫は退屈で仕方ない。お城の生活は裕福だが、お城の中での遊びにも、おもちゃにも、すっかり飽きてしまった。ほんとうはお母さんと遊びたいが、お母さんは公務で忙しい。
ある日、そんなミシェル姫のもとに魔女が現れ、そんなに暇なら、町の普通の女の子、はなちゃんと入れ替えてあげよう、と申し出る。ミシェル姫はよろこんで魔女の「取りかえっこの魔法」を受け入れる。
はなちゃんと入れ替わったミシェル姫は、部屋ではなちゃんの日記を盗み見る。そこには、授業参観があったこと、友だちの父兄が自分をたくさん褒めてくれたこと、本当は自分の母に来てもらいたかったが、がまんしなければ……云々、ということが書かれている。ミシェル姫がはなちゃんの境遇に思いを馳せていると、再び魔女が現れ、そろそろお城に戻りたいのでは、と申し出る。ミシェル姫は魔女に、お城に戻ってお母さんに会いたい、と言い、ミシェル姫は再び「取りかえっこの魔法」によって城へ戻ってゆく。

不思議な物語である。

いわゆる「取りかえっこ物」の物語は、典型的なものが数多くある。マーク・トウェイン「王子と乞食」やケストナー「ふたりのロッテ」はもちろんのこと、シェイクスピア「間違いの喜劇」やブレヒトの「セチュアンの善人」も「取りかえっこ物」のひとつである。風貌は似ているが境遇のまったく異なる二人が、それぞれの生活を入れ替えることによって新たな視点や考え方、情報を獲得する。入れ替わっていることは周囲には秘密にされていて、その秘密はいわば二人の特殊能力である。その特殊能力は、物語の中で二人に訪れる困難を乗り越えるためのカギとなる。

このような「取りかえっこ物」が舞台化される際にはたいてい、一人の俳優が二役を演じる。二役を演じ分ける俳優の巧みな演技や、二役入れ替えのイリュージョンを見せられるところが、舞台原作としてこのような「取りかえっこ物」が愛される理由の一つだろう。

「取りかえっこ物」をやる際には、二人の境遇を偏りなく描写するのが鉄則である。二人の境遇の対称性を強調することで、それぞれの境遇の中心人物が入れ替わることの緊張感を演出できる。しかし、この「取りかえっこしましょ!」には、なんとはなちゃんは一切登場しない。

はなちゃんが一切登場しないどころか、この「取りかえっこしましょ!」においては、ミシェル姫とはなちゃんが入れ替わること以外、何も起きない。ミシェル姫は城で退屈していて、突然魔女が現れる。入れ替わりのきっかけとして、町で偶然、自分にそっくりの少女・はなちゃんに出会った、なんてことが起きたわけではないし、城でお母さんと諍いがあって家出したいと思っている、なんてこともない。また、お母さんと遊びたい、というミシェル姫の願望は、入れ替わったところで叶えられない。代わりにはなちゃんのお母さんと遊ぶことができたわけではないし、城に帰ってからも境遇は大して変わらないだろう。はなちゃんと入れ替わっていることが、つい普段の振る舞いが出てしまい露見しかける、なんてこともないし、はなちゃんとの入れ替わりが事件解決の糸口となる、なんてことも、もちろんない。

では、この「取りかえっこしましょ!」は、いわゆる「取りかえっこ物」ではない、のだろうか。わたしはそうは思わない。この「取りかえっこしましょ!」は、魔女が自身の魔法を「取りかえっこの魔法」と呼ぶ以上、「取りかえっこ物」なのだ。

わたしたちは従来の「取りかえっこ物」を見る時、その事件性だけを楽しんでいないだろうか。入れ替わりがいつバレるか、バレずに危機をくぐり抜けられるか、事件や問題をどう解決するか。しかし「取りかえっこ物」の魅力は、何よりも、自分と、自分以外の誰かが入れ替わって生活する、という「取りかえっこ」そのものにある。生活そのものを「取りかえっこ」することはできなくても、仲良しの友だちとたまにお弁当を交換してみたり、服を交換してみたりして遊ぶのは、「取りかえっこ」することそれ自体が楽しいからだ。

「取りかえっこしましょ!」は、この「取りかえっこ」という出来事をミシェル姫の側からだけを描くことによって、「取りかえっこ」することそのものの魅力やスリルを描き出すことに成功した。ミシェル姫とはなちゃんが入れ替わってからも、視点はミシェル姫のままである。はなちゃんの日記が後方のスクリーンに映し出され、ミシェル姫に読まれる時、なんとなくはなちゃんの日記を「盗み見ている」感覚にさせられるのは、はなちゃんが一体何者なのか、観客には一切知らされないからである。「取りかえっこ」したお弁当の味や、服の着心地。なんとなく自分のものとは全然違うような、でも同じであることが確認できて安心するような盗み見の感覚は、「取りかえっこ」のもつかけがえのない魅力の一つである。

この物語が「取りかえっこ物」だからこそ、一切描かれないはなちゃんについて、観客は思いを馳せることができる。おそらく、はなちゃんはミシェル姫とは正反対の境遇にあるのだろう。家は決して裕福ではなく、もしかしたら片親なのかもしれない。家計を支えるためにお母さんは忙しく働いていて、はなちゃんもまた毎日家事で忙しいのかもしれない。それでも学校には友だちがたくさんいて、ちょっと恵まれない境遇の自分を気にかけてくれる大人もたくさんいて、全然、不幸ではない。ちょっとお母さんと過ごせる時間が短くてさみしいだけだ。その分、週末にはお母さんと一緒にお夕飯を食べるのが本当に楽しみで……などなど。こんなことは、一切、描かれないのだけれど。

従来の事件解決型の「取りかえっこ物」であれば、こんな風に「取りかえっこ」の相手について考えさせられることはない。実際に「取りかえっこ」して遊ぶときには、わたしたちは相手について、あることないこと想像して遊んでいるにもかかわらず。「取りかえっこ」することは、事件なんて起きなくても、楽しくて、ちょっとドキドキするものなのである。