「ラーメン姫」講評

ラーメンとチャーハン、炭水化物と炭水化物という禁断の組み合わせから着想を得て、その誕生のラブストーリーを創作した一作。

太郎は念願かなってラーメン店を出店することになった。準備は万端だ。準備を手伝ったのはラーメン姫とその仲間たち。
いよいよ開店、というとき、隣に「悦子の店」という中華料理屋が開店することがわかる。チャーハンと餃子を出すという悦子のその店は、なんとチャーハン王子とその仲間たちが手伝っていた。 
太郎と悦子はライバル心を燃やす。しかしラーメン姫は、諍いの際に見たチャーハン王子に一目惚れしていた。
ラーメン姫とチャーハン王子は、二人で話し合って、太郎と悦子に協力して店を運営することを提案する。
それぞれの仲間であるたまご、チャーシュー、メンマ、ギョーザくんも、お互いの料理にお互いが必要だと訴え、太郎と悦子を説得する。
説得は成功し、太郎と悦子は共同で店を出すことにする。太郎と悦子は結婚し、店は全国から客の訪れる繁盛店になり、ラーメンとチャーハンのセットは全国へ広がってゆく。

荒唐無稽な創作劇だが、とことん荒唐無稽に作り上げられており、清々しい。

男女のライバル同士が仲良くなって結婚する。禁断の関係にある姫と王子が一目惚れする。分断されていた要素が共有される。大団円が大きく広がってゆく。これらの物語要素はいちいち例を挙げなくてもいくらでも想定できるだろう。しかしここまで荒唐無稽な設定はなかなかない。観客は、これらの素材がロマンティックな恋物語において語られてきたものであることをわかっているからこそ、それがラーメンとチャーハンのセット誕生の物語として展開されることを面白がることができる。

セリフの端々にいわゆる典型的な言葉遣いが差し挟まれている。太郎は悦子に「フン、中華料理屋、ってわけか」とたんかを切り、チャーシューは自身が悦子の店にも使われることに納得するために「まあ、チャーシューは、チャーハンにも使うし……」とぼそぼそと呟く。ラーメン姫は喧騒を離れ一人外へ出て「チャーハン王子、素敵だったな……」とうっとりと独りごちる。今時こんなことを言う奴はまずいない。子ども向けアニメの台本だってもうちょっと気の利いたことが書かれているだろう。もはや「懐かしのアニメ名シーン特集」か何かでしか見られないようなシーンを、結論として太郎と悦子は手を取り合いラーメンとチャーハンのセットができる話だとわかった上で、見ることのできる安心感と快感は、児童学科のミュージカルとしてやって見せるに値するものだった。

「子どものためのもの」によくある典型的なセリフ回しや演出は、他の、もっと刺激的だったり、現実的だったり、不可解だったりする作品を見ている大人から、そんなの「子ども騙し」だよ、と言われることがある。「子ども騙し」という言葉には、そんな典型的なわかりやすい演出に未熟な子どもは騙されているのだ、大人向けの作品にこんな単純な演出を用いても、大人は騙されない。大人を騙すためにはより深い意図の演出や目的が必要だ。という主張が含まれている。「ラーメン姫」に用いられている物語の展開やセリフ回しは、「子ども騙し」と呼ばれる類のシンプルなものだ。でも面白い。会場は笑いにあふれていて、悦子役の高橋さんは客席からの「悦子!!」というコールに堂々と応えていた。それは、ラーメンとチャーハンのセットという身近なものを素材にしているから、とか、わかりやすい演出とストーリーだから、ではなく、ここではわたしたちもまた、荒唐無稽な「子ども騙し」の恋物語に「騙されたい」と思っているからだ。もしかしたら、幼い子はこれに本当に騙されて、ラーメン屋さんに行く度に「えつこ〜」と叫ぶようになるかもしれない。わたしたち大人は、もちろんそんなことはしない。ラーメンとチャーハンのセットがラーメン姫とチャーハン王子の恋によって始まったなんて、信じはしない。しかし、「ラーメン姫」の上演中、その物語に騙されることは、ある種の快感である。こんな荒唐無稽な物語に「騙される」には、観客も努力しなければならない。荒唐無稽な設定を受け入れ、わかりやすい演出に同調するという観客の努力は、「ラーメン姫」の上演空間における舞台と客席を一体化する。わたしたちは客席で自ら一体感を作り出し、この「子ども騙し」に「騙される」ことがわたしたちにとって快感であることを確認させられる。その一体感はまさに上演に立ち会うことの快感そのものである。そのような一体感をもたらしているのが、まさかラーメンとチャーハンのセットとは。