「人魚寿司」講評

タイトルにちょっとドキッとさせられる。まさか、人魚をお寿司にして、食べてしまうのだろうか。いくらなんでも、グロテスクすぎるのでは……。

海での暮らしに飽きてしまった人魚は、魔女に頼んで人間にしてもらった。
上陸した人魚は寿司屋の板前に出会い、ご飯を食べさせてもらうことにする。
「寿司」という食べ物が何なのかわからない人魚はのこのこついて行くが、今日はおいしそうなブリが入ったんですよ、という寿司屋の店員が持っている魚が、ついさっきまで一緒にいた友だちのブリであることに気づき、人魚は逃げ出してしまう。
人魚が人魚であることが露見してしまい、寿司屋の店員は、珍味であるという噂の人魚を寿司にして売りだそうと、人魚を追いかける。一方板前は、人魚が人魚であることに悩みつつも、やっぱり好みのタイプであることを確認し、人魚とともに寿司屋の店員からの逃亡を手伝う。
板前は人魚とともに暮らすために、自身が魔女に頼んで人魚になることを選択し、二人は海底で昆布寿司の店を開いて暮らす。

とにかくハラハラさせられた。まず、人魚が人間になりたいと願う、という設定の持っている「声と苦痛と引き換えに人間の足をもらう」というようなことがここでも起きるのでは、と思わされるのだが、とりあえずそんなことは起きず、魔女は何の見返りも求めずに簡単に人魚を人間にしてくれる。ここでは一安心できるのだが、上陸して出会うのがまさか寿司屋の板前である。板前は憔悴気味の人魚に食事をさせてやろうと自身の店へ誘うのだが、観客はこの時点で「え、寿司屋だよね……?」と思わされる。いざ人魚の前に寿司が供されようという際には思わず客席から悲鳴が漏れた。人魚であることが寿司屋の店員にばれ、寿司屋は包丁を持って人魚と板前を追いかける。客席を逃げまわる人魚と板前。寿司屋の店員が持っているのはダンボールか何かで作った偽物の包丁なのだが、捕まったら人魚はさばかれて、食べられてしまうのだと思うと、やはりヒヤヒヤさせられる。

アンデルセンの「人魚姫」、またはディズニー映画「リトル・マーメイド」において、人魚姫はもっと夢見がちで、非現実的なロマンティック・ラブロマンスのヒロインである。結末は異なるが、主人公の人魚は声と苦痛という犠牲を払い人間の足を手に入れてまで、なんとかして陸の世界へ行こうとする人魚姫の物語の悲劇性は、主人公の苦痛によって物語の受け手の同情を誘うことで成り立っている。人魚姫の物語は、ただ一目惚れしただけなのに、その相手が自分と違う土地に生きる生き物だっただけなのに、あまりに大きな犠牲を人魚姫に払えという。この人魚姫の悲劇に、涙を誘われるのは事実だが、わたしは時に腹が立つ。なぜなら、恋をすることは、それだけで、常にどこか不条理であることを、もういい大人のわたしたちはすでに知っているからだ。こちらがどんなに好きでも、相手が自分を好きだとは限らない。それでも好きなときは好きだ。アンデルセンの「人魚姫」において、王子が選ぶのは声を失った人魚姫ではなく隣の国の姫である。幼いころに「人魚姫」を読んだ時には、ひどいのは王子様だと思ったかもしれないが、恋とは時にそういうものである。そうだとすれば、人魚姫に与えられた試練は、あまりにも、あまりにも不条理ではないか。

この「人魚寿司」の人魚は、人間になるために何かを犠牲にしたわけではない。好奇心で陸へ上がり、偶然板前に出会う。仲良くなる。もっと仲良くしたいと思う。しかし、相手は別の食文化に生きる人だった。わたしたちに訪れる本当の恋の試練とは、このようなものだ。仲良くなればなるほど、お互いに異なる文化を持って育ったことがわかってしまう。自分たちの間にある齟齬ならまだしも、自分の家族や、友だちや、職場の人間が、相手のことを受け入れてくれるかどうかわからない。もしかしたら受け入れてもらえないかもしれない。

そんなとき、わたしたちはケースバイケースに、徐々に周囲に紹介を始めたり、時にはなんとか説得したり、またはその恋を諦めて別れたりする。「人魚寿司」の、この決定的に異なる文化にある二人はどうしたか。板前は自分が人魚になることにして、そして海底で昆布寿司の店を開く。二人であらたな文化を周囲につくり出すことにしたのである。二人が生き延びられるように、二人に怖いことが起きないように、終始ハラハラ、ドキドキしながら見守らせられ、そして最後には思いもしなかった(なにせ昆布で寿司を握るのだ。美味しいのかな)結末が用意されていた。なんとも清々しい「人魚姫」改題ができあがったものである。