「みんなちがってみんないい」講評

金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」を元にした一作。

おそらくこの詩を元にしてなにか作ることが先行していたのであろう。最後に「私と小鳥と鈴と」に曲を当てたものを歌い上げる。一作20分とはいえ、13作品を見続けて疲れ気味の観客を安心させるにふさわしい最後だった。

それぞれ異なる大きさや長さのくちばしを持っている4羽の鳥。仲良しではあるが、時にけんかもする。
4羽は宝の地図を見つけ、その宝を探すことにする。
一番小さな鳥は歩くのが遅く、背の高い鳥はイライラ。4羽は徐々に険悪なムードになり、それぞれ、やれ羽の模様がおかしいだの、飛べないだの、小さいだの、大きいだの、お互いを中傷しあう。
宝箱は無事見つかるが、開かない。
鍵は木の高いところにひっかかっており、背の高い鳥が、長いくちばしを必死に伸ばしてそれを取る。
鍵はもう一つ、暗号のようなものがあり、4桁+3桁の足し算が書かれている。なかなかの難問だが、いつも本ばかり読んでいる背の低い鳥は、一生懸命それを解き、答えを導く。
宝箱は無事に開き、 中には一曲の楽譜が入っていた。

「私と小鳥と鈴と」を導く物語として、4羽の物語は正直貧弱だった。金子みすゞの詩の「みんなちがって」が種別の違いを描いているのに対し、この物語は個性を描いてしまった。詩の中に「小鳥」や「私」が出てきてしまうので、「小鳥」と物語上の4羽の鳥がどうしても重なって見えてしまい、鳥のことを考えればいいのか、「私」の視点にたてばいいのか、それとも種別の差異について考えればいいのか、はたまた個性に思いを馳せればいいのかわからない。金子みすゞの詩に対する観客の期待とインパクトに比して、物語の最後に天使が登場して個性の尊重を訴えるので、なおさら詩との齟齬が目立ってしまった。

しかし、13作品中、最もパフォーマティブだったのもこの「みんなちがってみんないい」であった。

パフォーマンスとは、人間が人間に何かを見せ、人間が人間の何かを見る行為である。その意味で、スポーツや大統領の演説もパフォーマンスである、という論点は、だいぶ前から指摘されていることである。では、わたしたちはなぜ、スポーツや演説を「見て」しまうのだろうか。結果を競い合うスポーツならば、結果だけ見ればいいのではないか。政策を語る演説ならば、聞くより読んだほうがしっかり理解できるだろう。しかし、わたしたちは、超越的な速さで走る人間や、夢や希望を堂々と語る人間を、「見て」しまう。

「みんなちがってみんないい」の鳥は、黄色いレインポンチョとフードかぶり、フードに厚紙で作ったくちばしをつけていた。それぞれ長さが異なり、背の高い鳥のくちばしは確かに、長く作ってあった。木の高いところに鍵がある、というシーンは、黒板に木の形に作った厚紙を磁石で貼って、鍵の小道具(おそらくこれも厚紙製)をその木に部分的にひっかけて表現していた。これを、背の高い鳥役が頭につけた厚紙製のくちばしを使って取るのであるが、この高さが、絶妙な高さなのである。ギリギリ取れるか、取れないかの高さにひっかけられた鍵を、何とか取ろうと背伸びをし、頭を微妙に調整するさまは、卑近な言い方しかできないが、本物だった。

歌も踊りもない、豪華な衣装もセットもない。そんな舞台で観客を魅了するのは、俳優の身体である。身体は動き、脈打ち、躍動し、時にじっと黙る。あの時、あの鍵が取れるか、取れないかのその瞬間を、客席は固唾を呑んで見守った。客席は物語上の鍵が取れることを望んでいたのではない。黒板に貼り付けられた木に引っ掛けられた、厚紙で作られた小道具を、俳優が、制限された条件のもとで取る、という行為そのものを見守っているのである。観客がそれを見守ろうという気持ちになるのは、俳優の「小道具の鍵を取る」という行為が、取れるとわかっていて取るのに苦労するふりをしているのではなく、本気で取るために努力していたから、つまり、本物だったからである。

そのシーンのために、彼女たちは正確に鍵の高さとくちばしの長さを調整し、ギリギリ取れるか取れないかの高さを設定した上で、背の高い鳥が木の高いところにひっかかった鍵を取る、という本物のシーンを作り出した。プロの俳優は、台本に書かれた演技のひとつひとつにおいて、このような「本物」をつくり出す。それが俳優の仕事である。俳優としての訓練を受けたわけでもない彼女たちが、このような本物のシーンを演技の技で作るのは困難だ。だからこの日、演技によってそのような本物のパフォーマティブなシーンが作られたことはなかった。ただひとつ、この「鍵を取る」シーンを除いては。物語なんて、どうでもいいよ。金子みすゞの詩より、このシーンが見られて、こんなことがここで起こって、わたしはほんとによかったと思う。