演鑑演劇部2013年度生卒業公演ロク斜タク『制服戯曲』のはなし

3/5の夜の回を拝見しました。演鑑演劇部には知っている学生さんが多く参加していることもあって都合のつくときはできるだけ公演を拝見するようにしています。

その都度の公演に演鑑演劇部の学生さん全員が関わるわけではないようで、その都度中心的に関わっているのが誰なのか異なり、そのため同じ演鑑演劇部の公演と言っても毎回全然違います。それでも、そこに一貫してある、学生団体ゆえの制限をいろいろ工夫して乗り越えつつ、未熟さを抱えつつ熱っぽく、その熱っぽさを素直に出せないで一生懸命斜に構えている感じ、が、わたしはとても好きです。

今回の『制服戯曲』は、ゼミなどで深く関わった学生さんが多く関わっていたこともあり、期待もありつつ、ちょっと不安とさみしさも抱えつつ、の観劇となりました。
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『制服戯曲』について

作・堀光希、演出・鈴木広大。

俳優は10人登場し、基本的に一人一役を演じている。登場人物には固有名が与えられておりそれぞれ名前を呼びあうシーンもあるのだが大変申し訳ないことにほとんど忘れてしまった。(「あさちゃん」と「はんこちゃん」と「こやさん」は覚えてるんだけどさ!)
そこで、ここでは便宜上、あらすじを整理しながら以下のように仮名を設定してみようと思う。

年代設定は明確ではないが、「文明的なもの」として紙おむつが登場し、また携帯電話やPC等は登場しないことから、昭和後期くらいを想定すればいいのだろうと思う。しかしここでは実際の昭和後期の日本が描写されているわけではない。国家の圧政(ここでは資本主義的なものが象徴されている)に対して不満を抱えた反政府組織(これも非常に大切な名前のはずなのだが正確には忘れてしまった。ごめん。傘下ナントカ会だったと思う)は国家転覆をねらってテロを企てている。
しかし、指導的立場にある〈指導者〉と彼を父親のように慕う〈はんこ屋〉の会話は朗らかなものである。この時、反政府組織の計画していたテロは大規模なものであり、政府はここにスパイを送り込んでいた。送り込まれた〈軍人〉と〈兵士〉は〈指導者〉と〈はんこ屋〉の裏をかき、テロを失敗させる。反政府組織の計画はある大きなデパートで行われていたが、〈指導者〉〈はんこ屋〉と〈軍人〉〈兵士〉のほとんど殺し合いの末にその決着がつこうとするその時、大規模な地震が起き、彼らと、たまたまそこに居合わせた一般の人々〈宣教師〉〈娘〉〈妊婦〉〈おばさん〉〈学者〉が閉じ込められる。

デパートに閉じ込められた後も、〈軍人〉は〈指導者〉と〈はんこ屋〉を拘束し、デパートの中にある保存食を規制し、男性居室、女性居室を強引に分けるなど、軍服をまとって傍若無人にふるまう。状況によっては殺してしまおうとさえするのだが、その都度〈学者〉は機転を利かせ、生命だけは全員が維持している。しかし〈軍人〉は〈妊婦〉に対してさえ気遣いを見せない。人間としての尊厳を堂々と踏みにじる〈軍人〉に対して、〈おばさん〉は常に抗い、〈宣教師〉は神の教えを説く。〈妊婦〉は産気づく。それまで〈軍人〉に粛々と従っていた〈妊婦〉は豹変する。〈軍人〉は圧倒され、そのすきに人々は協力しあい、無事に出産を成功させる。赤ん坊が生まれてから、〈軍人〉はすっかり赤ん坊に夢中になり、それまでの態度を改める。〈軍人〉の規制がなくなったため、人々は朗らかになり、仲良く救助を待つことができるようになる。〈娘〉はデパート内の呉服屋から見つけてきた布で新しい服を作り、全員が同じ布からできた服を着用するようになる。

しかし〈娘〉の作った服は一着多かった。丁寧に仕立てられた白いワンピースはあきらかに大人の、若い女性のためのものである。
実はそこに閉じ込められていたのは彼らだけではなかった。彼らはその名を呼ぶことさえしないが、彼女は〈娼婦〉であり、気が狂っていて、閉じこもっている。全員が彼女を心の底では汚らわしいと思っていながらそのようには振る舞わない。
ここまでに〈娼婦〉はすでに舞台上に姿を表しており、〈娼婦〉がどのような風貌の人物なのかは示されている。〈兵士〉はこの状況に疑問を呈するが、共同生活の和を乱さないため、彼らは〈娼婦〉の存在を共通の秘密として抱えながら、仲良く、朗らかに救助を待つ。その中心には赤ん坊がいる。みなが、赤ん坊は希望の中心であり、すくすくと育っていると思っている。

突如、〈娼婦〉が現れ、寝かされていた赤ん坊を抱き、あやし始める。席を外していた〈妊婦〉が戻り、〈娼婦〉が赤ん坊を抱く様をみて狂乱する。全員がなんとかして〈娼婦〉を説得して赤ん坊を取り戻そうとする。特に〈軍人〉は、かつて〈娼婦〉をおそらく強姦したことがあり、そのことを謝罪する。〈娼婦〉はすんなりと赤ん坊を〈妊婦〉に返す。そして、「抱かせてよ」と手を差し出す。〈娼婦〉が自分たちの説得に応じたのだと思っていた人々は、その場合〈娼婦〉のこの申し出を断ることもできないことに気づいて恐怖する。〈娼婦〉は赤ん坊が実は既に死んでいることを暴露し、彼らを罵倒し、自身の生い立ちの思い出を語る。

救助が来て、デパートの壁が壊され、人々は解放される。

「私服」と「制服」

タイトルが『制服戯曲』となっているとおり、「何を着て社会的に存在するか」が大きなテーマの一つとなっている。

〈軍人〉〈兵士〉〈指導者〉〈はんこ屋〉がそれぞれ軍服や反政府組織の制服をまとっている前半部分では、それぞれがきわめて原理主義的にふるまっている。〈軍人〉はすべての一般市民は自分に従うべきだと考えているし、〈指導者〉は拘束された以上は抵抗すべきではないと考えている。また、自らの意志で宣教師となった〈宣教師〉は、身なりこそ立派なものの、実はその講話の内容はほとんどデタラメに近い。それでも〈娘〉がその言葉に耳を傾けるのは、話の内容が立派だからというよりも、その身なりによって提供される適切な雰囲気が、絶望に傾きかけている自らの思考を止めてくれるからである。〈学者〉と〈おばさん〉、また〈娘〉も、それぞれ私服ではあるのだが、このように考えてみるときわめてステレオタイプな「私服」である。〈学者〉はチェックのネルシャツにチノパンツ、〈娘〉は白いブラウスに吊りスカート。〈おばさん〉はさすがにエプロンをしてデパートには出かけないということなのか、体型を隠すようなゆったりとした襟なしブラウスにドレープパンツで、〈妊婦〉はもちろん、ウエストの切り返しが太めに作られたワンピースである。
ロク斜タクは学生団体なので、俳優は全員、二十歳前後である。見た目の制約と年代設定を考慮に入れた衣装設定であろうが、これらの衣装は私服としてまとわれているにもかかわらずそれぞれが個人としてどのような人間なのかを示すものにはなっていない。個人的には学者がみんなダサいわけじゃないぞと言いたい。ここでのこの私服は、それぞれが自分の社会的立場に拘束されていることを示すもの、つまり、「制服」なのである。

そこに、一糸まとわぬ者=赤ん坊が誕生する。赤ん坊の誕生をきっかけにして、彼らはそれぞれの制服を脱ぐことにする。しかし、結果着ることになったのは、全員が同じ布から作られた白い服であった。その服の材料には、かつて反政府組織が掲げていた横断幕が切り刻まれて含まれている。かつて殺し合ったことをも含みこんで、今、ここに新たなコミュニティを形成し、そこに属するという意志のあるものだけがこの新しい、白い「制服」を着用せよ、ということである。
では、この小さなコミュニティに生まれた裸の者に、彼らは何を着せるのか。たとえ新たな「制服」を着用しても、その制服には過去の罪や現在の問題が染み付いている。赤ん坊の服のためにどの布を使うか、彼らは話し合う。横断幕の一部を使うか、それとも、〈娼婦〉のために作った服を使うか。かつて殺し合った罪を着せるか、一人だけ仲間はずれにし続けている問題をこの赤ん坊にも負わせるのか。〈妊婦〉は全員の服を少しずつ取って縫い合わせて作ろうと提案するが、それが根本的な解決にならないことは明確であり、賛同は得られない。〈娼婦〉は大きな牡丹柄の和服を着ている。〈娼婦〉は彼らの白い「制服」を着ることを拒み続けている。このことは彼女の、彼らのコミュニティには属さない、という意思表示として機能している。しかし〈娼婦〉もまた、自身の生い立ちという制約から逃れられない。〈娼婦〉は自ら牡丹柄の和服を脱ぎ捨て、赤いワンピースに着替えるが、その赤さはどうしても牡丹の赤さを想起させ、また、そのワンピースは〈娘〉が〈娼婦〉のために用意したものと同じ形をしていた。これを閉じ込められたコミュニティの内部で起きた出来事としてとらえるならば、彼らが何を着ているか、ということは問題にならないだろう。そこにあるもので新しい服を調達することは衛生上重要な生存戦略でしかない。実際、舞台上の彼らは、きわめて合理的な成り行きでこの展開を遂行する。このような、誰が、そのとき、何を着て行動しているか、ということが問題になるのは、あくまでもこれが舞台上の記号としてあるからである。つまり、それが見られるものである限り、観客に解釈されるという制約が付きまとう。『制服戯曲』においては、彼らが何を着ても、何を着せても、それは「制服」なのである。

好きなもの着ればいいじゃん、好きな格好すればいいじゃん、デパートの壁も壊れたことだし、幕も降りたし、観客の目ももう届かないじゃん、どうせ外は地震でぐっちゃぐちゃだし、また好きなように社会作ってけば、と思うけれど、しかし、わたしの想像の世界にいる、その後の彼らが、自分の好きな服を着るためには、資本主義的な社会、自己決定権、選択権のある世界が必要だろう。あれ、反政府組織は、そんな行き過ぎた資本主義を強烈に後押ししようとする政府に反抗していたのではなかったか。そんな競争社会から脱落した者は、まるで軍服のような反政府組織の作業着を着るしかないということなのか。自分に似合う、赤いシフォンのワンピースを着るためには、身を売るしかないということなのか。では、彼女から生まれてくる、文明的な紙おむつで育つ赤ん坊は。

わたしはン万円の土屋鞄のショルダーバッグを大事に使っているし、GUのスカートも大好きだ。この日履いていたスカートはもう3年めくらいである。わたしはこれからこのスカートを履くたびに、そんなことを考えるのだろうと思う。

コミュニケーションとディスコミュニケーション

さて、もう少しだけがんぱろう。

『制服戯曲』に登場する彼らは、それぞれの立場で、それぞれの意見を主張する。
前半、〈軍人〉は〈指導者〉に仲間の居場所を教えろと迫ったり、閉じ込められた人々に自分に従えと脅したりする。それに対して〈指導者〉は実は知っているのに知らないと言い続け、食事を取れと言われるのに(結局は食べるのだが)拒み続ける。このような言葉や主張のすれ違いが、この上演の前半を占めている。〈おばさん〉は〈軍人〉に抗い続けるが、〈軍人〉の態度は変わらない。〈娘〉は〈宣教師〉の言葉を聞くことで安寧を維持しているが、〈宣教師〉は不勉強のために〈娘〉の質問には答えられない。その不勉強を指摘するのは〈おばさん〉なのだが、〈娘〉は〈おばさん〉のその指摘は聞かないことにしている。〈学者〉の整然とした論理的な主張を〈軍人〉は当然聞き入れない。〈兵士〉は〈娘〉にチョコレートを差し出すが、〈娘〉は〈兵士〉から直接それを受け取るわけではない。

戯曲に書かれた言葉はそのようなすれ違いで構成されており、事柄の遂行理由としてはあるものの、会話としては成立していない。誰かの発言によって相手が変化する、というようなことがほとんど起きないのである。この上演を大きく前半と後半に分けているのは赤ん坊の誕生であるが、特に前半のギスギスとした雰囲気の中においては、このような会話の不成立が演技によっても明確に示されている。

後半に入ると、人々の雰囲気が朗らかになるために、まるでそのようなすれ違いはないようにみえる。しかし、本当にそうだっただろうか。たとえば、赤ん坊がかわいいとか、〈軍人〉が変わったとか、表面的な事柄の描写を複数人で行う場面はある。しかし、〈はんこ屋〉は夜中、みなが寝ている間に、〈指導者〉を父のように慕っていることを〈おばさん〉に話し、〈おばさん〉は丁寧にそれを聞くが、そのことによって〈おばさん〉の態度が変わるわけではなく、これはただ〈はんこ屋〉の独白を成立させているに過ぎない。〈兵士〉が〈娘〉にチョコレートを供する場面は後半にもあり、これが〈兵士〉の〈娘〉に対する好意のメタファーであることは明確であるが、〈娘〉は一向にそのことに気づかない。

後半の言葉を介したコミュニケーションに着目してみると、実は、彼らがほんとうの意味で素直な反応を見せ、変化するのは、〈娼婦〉についてだけであることがわかる。
そのような場面は2回ある。
ひとつめは、後半、赤ん坊に何を着せるかが問題になったとき、〈兵士〉は〈娼婦〉の服を使うことを提案する場面である。ここで〈兵士〉は、みなが〈娼婦〉の存在を隠し持っている状態に疑問を呈し、そのことを共有しよう、つまり、知っていて知らないふりを続けるのではなく、堂々と「いない」ことにしよう、と提案している。言葉の上では、その提案に堂々と賛同するものはいない。この提案に対して〈娘〉は反政府組織の横断幕を着せて〈娼婦〉の服を傷つけないこと(=堂々と「いる」ことにする)を提案し、〈指導者〉と〈はんこ屋〉は賛成する。〈妊婦〉はみなの服をすこしずつ取って着せよう(=現状維持)と提案する。この3つの選択肢に対して、〈兵士〉以外の全員が、言葉の上ではそれぞれの主張をもちながら、あいまいな態度をとる。
ふたつめは、終盤、赤ん坊を〈妊婦〉に返した〈娼婦〉が、〈妊婦〉に手を差し出し、「抱かせてよ」と呼びかける場面である。赤ん坊を抱いた〈娼婦〉に対して、全員が声をかけて説得し、〈娼婦〉から赤ん坊を取り返そうとする。このとき、彼らが〈娼婦〉にかける言葉は赤ん坊を勝手に抱いた〈娼婦〉を罵倒するものではなく、それまで仲間はずれにし続けたことを詫びるものだった。〈娼婦〉はそれに応えて赤ん坊を〈妊婦〉に返すのであるが、〈娼婦〉が「抱かせてよ」と呼びかけた時、全員がすっと凍りついた。

この2つの場面に共通しているのは、言葉の意味と行動・態度の意味のずれを、この時の登場人物全員が了解しているという点である。それまでの表面的な会話においては、実際には言葉のやりとりでのコミュニケーションが成立していない(言葉によって相手が変化しない)にもかかわらず、これらの場面では、言葉によって問題があぶり出され、全員がその問題を共有し、それに対して悩み、解答しようと苦悩する。彼らの発する言葉はその苦悩をそのまま出したものにはなっていないため言葉によっては議論されていない。彼らの議論は態度(俳優の演技)によって遂行される。しかしその結論は言葉による議論によって出されたことになってしまうために、態度とのズレもまた明確になる。そのようなズレの明確化が、登場人物の、というよりも、俳優の態度をさらに変化させていた。特に〈娼婦〉の「抱かせてよ」という呼びかけに対する俳優たちの反応にはぞっとさせられた。なぜなら、このとき、わたし自身もまた、表面的には〈娼婦〉が仲間外れにされてかわいそう、などと思っていながら心の底では〈娼婦〉を仲間外れにしていたことに気付かされたからである。

「手を携えて生きる」こと

わたしたちはみんなそれぞれ異なるのだけれど、でもなんとか折り合いをつけて一緒に生きていかないとどーにもならないんだけど、どーする? というようなことが、わたしの研究の根幹にある。わたしは若輩だが、もちろんこんなことを堂々と論文に書くほどに未熟では、もうない。だから、こんな学生団体の、特に卒業公演なんて見る時には、いつも、あー、いいな、羨ましいな、と思うのである。

成熟した大人の公演においては、たとえば、政治的背景についての詳細さや、地震という災害についての知識、脱出不可能な状態になったときの人間の態度……について、より詳細な描写が求められるだろうし、演技のあり方についても、言葉をどのように扱うか、演技の質や態度、振る舞いをどのように記号として成立させるか、より厳密な演出が求められ、俳優の演技も技術でそれに応えなければならないだろう。
しかしそんなことはどうでもいいのだ。むしろ、それができてしまったら、それは卒業公演である必要はないだろう。書かれた言葉を読み、発話し、アイデアを出し、それを取りまとめ、より大きなコミュニケーションへと拡大する、その結果としての上演であったと思う。

わたしは、とりあえずここまで『制服戯曲』について書いてみて、今やっと、わたしがあの客席で感じたことは、そういう彼らのやりとりのすれ違いと、そのずれを調整しようとする努力の痕跡だったのだと理解した。完全にきれいにまとまってしまっていたら見られないような、リアルな、ディスコミュニケーションがそこにあった。そして、上演を遂行することによって初めて、問題が顕在化し、そうやって素直に、丁寧にあぶり出された問題に対してだからこそ、わたしは素直に反応できるのだと。素直さにならって、編集なしで出してしまおう。

あなたたちの多くはわたしのことなんか知らないと思いますが、もうロク斜タクを見られないと思うとさみしい気持ちになります。卒業おめでとう。