瑞浪高校演劇同好会自主公演「OFF」のはなし

大垣西高校の本間康太郎くん、大垣養老高校の中島悠くんによる公演。
4/1の回と4/2の午前の回を拝見しました。

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幼い子に「将来の夢」を問うことは、よくあることであるが、なぜだろうか。

幼い子は、お姫様とか、ゴーレンジャーとか、荒唐無稽な答えを返す。大人は、そんな幼い子の壮大な、おそらく決して叶うことのない夢を愛でる。大人が幼い子に将来の夢を問うのは、そんな大きな夢や希望をもって、毎日を生きてほしいと願うからである。しかし、そんなことを問う方の大人は、大きな夢や希望を持つことをいつの間にかやめてしまう。日常生活を過ごすうちに、お姫様やゴーレンジャーにはなれないことを悟るからである。お姫様やゴーレンジャーになるには、出自や生まれ持った才能、財力、その他諸々が必要で、いつのまにか、自分はそういう星の下に生まれた人間ではないことを知ってしまう。大人になるということは、大きな夢や希望を持つことを諦めることであり、大して面白くもない日常を積み重ねることに慣れるということだ。日常とは社会に組み込まれたものである。社会は、自分の責任で、自由に、職業を選択し、働き、税金を収め、社会を成立させることに貢献せよと言う。自分の責任で、自由に。だから、そんな大して面白くもない、ただ重い責任を課せられるだけの、そんな日常からは逃れたい、と思うのも、おかしなことではないのかもしれない。
二人芝居「OFF」は、そんな日常を自らオフにすることを可能にしようとする少年の物語である。

全体は大きく2場、細かくは4場面に分かれている。

まずプロローグで、平成の時代が終わり、新たな元号は「ジリツ」であることが示される。

1場。 ある高校の弱小メールマガジン部では、メールマガジンのネタになる事件を探している。しかしそうそう事件など起きないから、メールマガジン部の二人は校内に適当に事件をでっち上げられないか思案する。どれも適当であるが、一つ気になることがあった。最近、休学する生徒が続出しており、彼らは学校へ来ずに眠り続けていて、眠り続ける彼らの傍らには、必ず赤い薬包紙が落ちている、ということである。
2場。ある青年はヒーローになることを夢見ていたが、校内で起きたいじめを止めることもできない臆病者であった。そんな彼が突如、ヒーローの扮装で大立ち回りを繰り広げる。大立ち回りをするには敵役が必要だが、どこからか適切な敵役が登場し、適切にやられてくれる。実はこの敵役は「ジリツ法」によって設立された企業、フューチャーカンパニーの社員であり、人々の叶えたかった夢を叶えてやる、という仕事をしている。敵役=フューチャーカンパニーの社員は、青年の夢を叶えてやった後、赤い薬包紙に包まれた薬を渡しながら、「もう一度、闘ってみませんか、日常と」と問う。しかし青年はそれにYesとは答えず、ただ残してきた猫の世話を社員に頼んで去ってゆく。
エピローグ。実は、新たな元号「ジリツ」も、フューチャーカンパニーも、一人の少年の妄想であった。しかし彼が赤い薬包紙に包まれた薬を使って多くの人を覚めない眠りにつかせたことはどうやら事実であり、そのため彼は拘束され、精神病院に入院させられる。しかし、少年が拘束された後も、赤い薬包紙に包まれた薬によって覚めない眠りにつく人は増えてゆく。

「ジリツ」が重要なテーマになっている本作において、この「ジリツ」は、自立だろうか。それとも自律だろうか。
せりふには「ジリツ」とは「他者からの制約をうけない」ことと明示されているが、自立にも自律にも他の助けや制約を受けないという意味が含まれている。自立と自律を意味の上で区別するのは、客観的な道徳判断に則して自分で制約を作ることができ、その制約に則り続けることができる、という意味を含むか否か、という点であるから、その場合問題になるのは、本作が「制約」をどのように扱っているか、という点であるだろう。

少年が「自由という制約」に別れを告げようとしていることからもわかるように、少年にとっての制約とは自由である。幼い子は自由に大きな夢を描くことができるが、その夢は大抵の場合叶えられない。臆病者がヒーローを夢見ても、対人恐怖症が心理カウンセラーを夢見ても、万年補欠の野球部員がプロ野球選手を夢見ても(もう少しあった気がするけど忘れちゃった)、その夢は叶えられない。この社会はわたしたちに職業選択の自由を与えておきながら、憧れのその職業にはたいてい、就けない。たとえば精神科医という社会的に認めれた高給の仕事にでもつかない限り、夢を叶えたことにはならないだろう。つまり、幼いころの大きな夢を本当に叶えることができるのは限られた一握りの人間だけで、それ以外の人間はなんらかの心残りを抱えて生きなければならないことになる。わたしたちが大人になる上でそんな心残りを抱えなければならないのは、幼いころに自由に夢を思い描くことができるからである。これが制約でなくてなんだというのか。そうだとすれば、そんな人生から逃れる自由も、また認められなければならない。少年は社会的に設定された自由に異を唱え、自ら状況を打開しよう抗っている。「ジリツ法」という法律を自ら制定し、純粋にそれに従う。まさに自律しているのである。

自律Autonomieについてはすでにさんざん論じられているしきちんと整理できる自信もないのでサラッと流すとして、自律した個人とは、自らが設定する制約を、道徳的な規範に則って、設定することのできる個人である。今まさに社会へ出てゆこうとする高校生に赤い薬包紙を渡す少年が本当に道徳的であるかどうか、ということが次のポイントになる。このことを考える上で思い出されるのは、1場で示されているように、赤い薬包紙に包まれた薬で覚めない眠りについているのは多くが高校生だということである。特に学校生活に支障がなく、友だちがいないわけでもない彼らは、どうやらジリツした大人になることを諦めて、夢を見続けることを選んだということらしい。

親の庇護を離れ、自立して、自由に、生きていいですよ、と言われたときに、幼いころの夢を思い出し、自分がヒーローになれないことを自覚したときに、わたしたちはどうするか。幼いころにヒーローを夢見て、しかし教室のいじめを止めることも出来ない臆病者であることがわかったとして、そのことの何が問題なのだろうか。いじめを止められなかったことを悔いるのは構わない。しかしだからといってヒーローになりたかった幼いころを恥じることはないし、ヒーローになれないことを悲しむ必要もないのではないだろうか。TVヒーローのようにいじめを止めることができるほどに勇敢でないならば、別の方法をさがせばいい。別の生き方で、別のやり方で、ヒーローになればいいではないか。幼いころの夢など、広い世界のほんの一部にすぎない。世界の広さを知らないから、保健室の先生になったり、子ども電話相談室の職員になったり、いじめレポートブロガーになったり、なんならNPO法人を立ち上げるとか、という可能性を知らないから、そして、そのような仕事が、どんなに尊く、気高く、この社会を支えているかをまだ知らないから、幼い子は「ヒーローになりたい」としか言えないのだ。変わらない日常は、退屈かもしれないが、代わりにこの世界が想像していたよりもずっと広く、深く、安寧な毎日のために沢山の人がこの社会を支えていることを教えてくれる。佐川のおじさんがいなければAmazonで買い物はできない。大人になるということは、そのようなひとつひとつの、一人ひとりの社会を支える仕事に敬意を払いながら、生きていくということだろう? 「僕はヒーローにはなれない」としても、べつに、いーじゃん?

しかし、べつにいーじゃん、を受け入れるには、大人にならなければならない、ということも、また事実であるように思う。

大人になるということは、まさに、社会の中で、自分を制約するものに気づき、必要に応じてそれに抗い、受け入れ、他の人たちの正義や道徳と折り合いをつけながら、自らの道徳を自覚し、社会の中で生きていくための制約を自分で作り、自分の責任でそれに従って生きることができるようになる、つまり、自律する、ということである。「ジリツ法」を妄想する少年には他の人の道徳と折り合いをつけるという観点が欠けているし、その少年を病気だよと諭す精神科医には幼い彼の心に寄り添うという大人としての配慮が欠けている。未熟なのである。

高校生のために書かれた「OFF」における救いは、現役高校生本間康太郎、中島悠の演じるこの未熟さが演出されたものであるということである。妄想する少年を演じた本間は、あきらかにサイズの大きな制服を着ていて、しかも終始肩をすくめているので、その大きな制服の不格好さが余計目立つ。ヒーローになりたかった青年と少年を診る精神科医を演じた中島は、高すぎる背を完全に持て余しており、最後に赤い薬包紙を握りつぶす仕草は舞台上の記号として成立させるにはあまりにも不器用であった。本作はそんな二人の荒唐無稽でテンポの良い掛け合いで大半の時間が使われる。その姿は、教室ではしゃぐただの高校生であった。しかし、プロローグ及びエピローグにおいてまっすぐに立つ本間は、その大きな制服の不格好さが気にならないほど堂々と、まっすぐに状況に抗っていたし、赤い薬包紙を握りつぶす不器用な中島の腕には、きっとこれから先、精神科医として研鑽を積む中で、幼い心に寄り添うことを覚えていくだろうという期待を抱かせる力強さがあった。

演じた彼らは、俳優としては確かに未熟であるが、それこそが救いである。きっと彼らは、これから訪れる多くの選択の機会に、この「OFF」を、一生懸命に、演じたことを思い出すだろう。そしてその度に、あの時、あの青年が生きることを選択していたらどうなったか、と考えるだろう。幼いあの頃、大きな希望を胸に思い描いた夢が、その時自身の選択肢の中にないとしても、必要に応じて状況に抗いながら、適切な判断のできる、自律した大人に、きっとなるだろう。なぜなら今、彼らはこんなに面白くて、堂々としている。正直、大事なところで噛むなと言いたかったけれど、前半あんなに上手なのになんてこった、けどまぁ、おもしろかったから、いいか。