座・高円寺夏の劇場13『フランドン農学校の豚 〜注文の多いオマケ付き〜』のはなし

まだ始まったばかりであるのと、書き出したら止まらなくてまとまらないのもあって、手短に行こうと思う。

座・高円寺「夏の劇場」の『フランドン農学校の豚』を見てきた。8月10日の回だから、本当に初演であったのかも。

宮沢賢治『フランドン農学校の豚』は青空文庫で公開されているが、
まったく胸糞悪い話である。
言語を操る能力を得た豚の生きる世界では、畜産動物を屠殺するのに動物自身の許可を得る必要がある。
主人公である豚は他の動物に比べて特に人類の言語を操るのがうまい。
豚は「殺して食べてもいいか」と問うフランドン農学校の人々に対し、嫌だ、嫌だと言い続け、最終的には絶望して屠殺されることを了承し、ぶくぶくと太らされて殺される。

……という、まったく、本当に、ひどい話なのである。

実際、作者・宮沢賢治はこのような「生き物を食べる」という人間の行為そのものに疑問を感じて菜食主義を貫いていた時期もあるというから、この原作を素直に受け取れば、同じ生き物を生き物が食べるために育て、食べる、というのは恐ろしいことである、ということになるのだろう。
しかし、同じ生き物だから食べるのはかわいそう、というのなら、植物だって生きている。私たちは生きるために、食べることを避けられない。
それはどんな生き物も同じである。豚や牛、鶏だけを「かわいそうだから食べてはいけない」と言われる対象にするというのもまたおかしな話なのだから、だったら何が問題なのか、わたしたちはどうするのか、を考えることのほうがよほど倫理的である。

座・高円寺あしたの劇場版『フランドン農学校の豚』は、原作の言葉をできるかぎり多く取り入れながら、歌や踊りを交えた楽しい劇だ。
コミカルなところはとことんコミカルに、シリアスなところはシリアスに、ハラハラするところはハラハラさせながら、テンポよく話が進む。

しかし、実は、話が進むと言っても、人間が「食べてもいいか」と聞き、豚が「嫌だ」と答えることが続けられるだけである。
6人の俳優は、豚の付け鼻という効果的な小道具を用いて、シーンごとに豚の役割を交代しながら「人間と豚のやりとり」を演じる。
豚は、シーンごとに、追いかけられたり、運動させられたり、おだてられたり、食べさせられたり、本当に酷い目に遭う。
最終的に、(ここが原作と異なる部分であるのだが)豚はいわば達観し、屠殺されることを受け入れる。

中学生以下無料招待、とされたこの公演には、多くの子どもが客席にいた。
まだ小学校にも上がらないような子も、兄弟と共に席にいたように思う。
単純なところで言えば、この演劇の作りは彼らにまったく優しくない。
宮沢賢治の少々難解な言葉をそのまま発話したり、付け鼻によって役割が交換されたり、それでいて俳優同士の関係性はそのまま維持されたり、演じている俳優以外の俳優は舞台セットの裏側をうろうろしていたりして、非常に高度なことをやっている。

……のであるが、そのことはあまり気にならない。
豚がひどい目に遭っている、豚をひどい目に遭わせる人間の方は、しかし、別に悪者だというわけではない。
人間は豚に「食べてもいいか?」と問う。豚は「嫌だ」と答える。
豚をやっているのは人間の俳優なのだから、そのことも別に豚のわがままのようには見えない。
むしろ、付け鼻によって豚がどんどん入れ替わるので、もしかしたら自分に豚の付け鼻が回ってくるかもしれない、と思ってハラハラしながら、自分に付け鼻が回ってきたらどうしようかなぁ、と思いながら、豚と人間のやり取りを見続けることができた。

しかし、この日、子どもに見せるものとして大変丁寧に作られたこの公演を、最終的に完成させたのは、前の方に座っていたまだ4、5歳くらいの小さな観客であったと思う。
作中、豚はさんざん酷い目に遭う。
たとえば、耳をひっぱられたり、身長を測るのに手足を縛られたり、足を持ち上げられて手で歩かされたり。
大人の観客は、ああ、豚になんてひどいことを、と思うだろう。
その小さな観客は、しかし、その度にケラケラと笑うのだ。
大の大人が、大人の耳をひっぱったり、手足を縛ったりして、やられた方がなんとかしてやり返したりするのは、たしかに面白いのだ。

『フランドン農学校の豚』を見るのに、やれ生き物を食べることとは、食べるために生き物を育てることとは、などと考えるのが「正しい」のでは、決してない。
そのように観劇するに「至らない」子どもに、そのような見方を「教える」ことにも、何の意味もないだろう。
ただ、ケラケラと声を出して笑ってくれる観客がいてくれたおかげで、あの上演はわたしにとって、まったくシリアスなかわいそうな豚の話で終わらないで済んだし、出されたご飯は残さずしっかり食べましょう、というような教条的な演劇にならないで済んだ、ということだ。

わたしはもう大人になってしまったので、ああやってケラケラと笑えるほど純粋に人の身体を見ることができなくなってしまったけれど、そんなお客さんと共に見るに値する上演であった。