『時代を拓いた教師たちⅠ、Ⅱ』書評

パフォーマンスの経験の教育的評価の方法としてのオートエスノグラフィー、の話をさせていただい時にご紹介いただいた本。
Ⅱの冒頭に、実践記録がこれまでどのように考えられてきたかが端的にまとめられているので、読んでみるといいよ、とのことでした。
紹介されたのはⅡだけだったけど、せっかくなので、Ⅰも内容見てみました。 

 

最初は面白かったんだけど、だんだん気持ち悪くなってくる。

実践記録の「呪術性」(未完)

Ⅱの序章、「実践記録」の性格と方法をめぐって、は、授業研究を重ねてきた日本の教育学における実践記録の性格について端的にまとめており読みやすい。
そこで言及される「呪術性」 を払拭することが本書の目指すところかな、と思ったんだけども、果たしてそれが達成されていたかどうかは疑問に思った。
(このことを論じるにはもう少しちゃんと読まないといけないのでここはペンディング)

固有名詞を持たない「子どもたち」

わたしの感じた気持ち悪さ、だけ、今はメモしておくことにすると、
学習者を「子どもたち」と書くところだろうと思う。

それぞれの実践記録には、特定の学習者が固有名詞で言及されることもあるのだけれども、
それはあくまでも記述対象となっている教育的なエピソードの中心となっている子のことであって、
基本的には、たとえば、「A子を中心として、それ以外の『子どもたち』は……」という書き方になっている。 

わたしがパフォーマンス経験の教育的評価の方法のためのオートエスノグラフィーに着目するのは、
そこで徹底的に個人を扱うことができるから、という説明の仕方をしている。 
そのことは、以前に書いたオートエスノグラフィー論文で、わたしが一緒に演劇づくりをした子たちの表記を
「子どもたち」から「あの子」「この子」、そして固有名詞表記へ、と変えていく、という書き方にすることで意識化したことだった。

ここで扱われている「実践記録」は、もちろん複数の実践記録が扱われているので、その性格はそれぞれちょっとずつ異なるのだけれども、 
基本的には教師の教育実践の内容を書く、というスタンスになっている。

そして、その教育実践の内容を学習者である子どもたちの反応からあぶりだす、
という書き方になっていることが多いと思った。
それぞれの実践記録の後半では、それぞれの教育実践の実践者である教師の教育観やライフヒストリー、教育思想、実践観の紹介になっていくので、あまり強くそのことが押し出されているわけではないのだけれども、
冒頭、かならず、その実践の様子が描写されていて、その描写のなかではたいてい学習者は「子どもたち」と書かれるか、中心人物の紹介としての固有名詞であって、それは
同じ出来事に対して他の感じ方をした誰かがそこにいる
ことを許すもの(そして、これがわたしのオートエスノグラフィーが目指すところ)ではない、と感じた。

なぜこのことが問題になるかといえば、
おそらく、 近代的な学校教育はひとつの実践で全員に対して同じ効果を出すことを目指しながらも、実際の授業の現場はそうはならない、
そのことのアンチテーゼとして、授業研究、実践記録(すなわち、現実の授業の有り様から研究を始めよう、というスタンス)があったのだろうということを踏まえて、
そうでありながら、書かれた実践記録はあくまでもひとつの実践でそこにいた全ての「子どもたち」に同じ効果が得られることを期待しているのではないか?
つまり、そのことが、ひとりひとり固有の名前と感受の内容をもった人物を「子どもたち」とひとまとめにして描写してしまう執筆態度に表れているのではないか……
と、感じられるからである。

このことは、田中自身が指摘する実践記録の「呪術性」とも関係するところだろうと思うので、
他の研究成果も踏まえて、もうちょっとくわしく見てみようと思う。 

うん、おもしろくなってきた。

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